どんな先生だったか?

*カンヴァース先生の想い出

<長野寿美さん:捜真女学校卒業生96歳のお話>
              (インタビュー:水野佳羊子先生 2001.8.31)

『先生はご自分のことを無視なさって、生徒のために尽くされた。』
 
ご自分の体を私達に下さった。目立ったすばらしいことというのではないけれど、捜真に先生の命を下さいました。先生は私達のお母様です。

 お金がなくて修学旅行に行かれない時、先生のお部屋に呼んで、わざとそのお話をなさるのではなく、いろいろな話をした挙げ句、最後に自然な形でポケットマネーをくださり、修学旅行にも行かれるようにしてくださったのです。「〜してあげているのよ。」「お金をあげるから行きなさい」というのではなく、本当に自然に。
 いたずらをしても怒らない。叱られた記憶がありません。お部屋に呼び出された時、怒られるかなぁと思いきや、「この頃どうしているの?」から始まって、優しく「明日の宿題は?」と、当てが外れて、かえって恐縮してしまいました。
 寮は設備が悪く、大きな火鉢が一つだけ。病人が出ると先生がすぐにいらしてくださいました。そのころみんな和服を着ていて、下着の長襦袢くらいしかなかったのに、その下着を病人の生徒にすぐにあげて、ご自分はつぎだらけの下着を洗濯なさって、それをお使いになったのでした。
 ご自分は倹約に倹約をなさいました。おやつは粗末で焼き芋くらい。それを生徒と一緒に召し上がっていました。ために生徒を西洋館に呼んでくださり、その時にはクッキーと紅茶かコーヒーを出してくださいました。
 藍綬褒賞をいただいた時、着ていらっしゃるお洋服がなく、卒業生がお金を出して先生に差し上げました。賞のお祝いの時、私はホールの一番後ろにいました。最後に先生と挨拶をした時、なんと、「あなた、一番後ろにいましたね。見えましたよ。」と、おっしゃって下さったのです。大変驚きましたが、壇の上からでも、一人一人を見ていて下さったことを思うと非常に嬉しかったです。



<日野先生のご本から>
『本当に大きな捜真のお母様!』

 優しい心の方でした。生徒を愛されたばかりではなく、結婚した生徒の家族をも愛し、その子供らのために手を休めずに編み物をしておられました。
 お訪ねすると、両手を握ってくださり、抱きかかえる様にして家に招き入れてくださり、手作りのおいしいクッキーと紅茶をご馳走してくださり、必ず聖書を読み、祈りを共にして、最後に「あなたは捜真を愛していますね。」と念を押すようにおっしゃっていました。
 厳しい方でもあった。学問に対しての真面目さは、まさに求道者の姿。しかし、生徒を褒める時は、両手をたたいて、上を向いて口を大きく開けて「アハハハ、Very good,Very good!」と、喜びの笑いをなさいました。世で言う美人などと言うものの枠をはるかに越えた立派なお顔、豊かなお顔。



*エピソード集6〜15

エピソード6
「エミーコーンズ
(山田千代先生)」
 エミー・コーンズは、非常に頭脳の優れた方でした。イギリス人の夫と日本人の妻の間に生まれた子供で、日本名を山田千代と言われます。エミーコーンズは、学生時代、昔の貴族学校(今の学習院)で勉強をなさいました。そして、横浜に引越しされて共立の前に住まわれ、そこで学びました。カンヴァース先生がおっしゃるには、日本の文化や行儀作法を良く身につけ、英語が得意な方だったそうです。そして、カンヴァース先生は物事に厳しい山田千代先生をとても頼りにしていました。ある意味では、山田先生は生徒にとって憎まれ役、カンヴァース先生は好かれ役という名コンビだったそうです。山田先生は、93歳でお亡くなりになり、カンヴァース先生と一緒のお墓に入っておられます。
エピソード7
「10年目の
大きな祭典」
 カンヴァース先生は、山手34番地に移ってから、10年目の大きな祭典をしました。約150人のお客様をお呼びして、みんな楽しく学芸会を催しました。みんな英語で挨拶をして、その時のフェリスの生徒を全部招待しました。捜真の生徒はみんなピアノやオルガンが上手だったので、フェリスのチャペルを借りて音楽会をし、その利益で学校の建築費の足しにしました。
エピソード8
「小学生・男の子」
 山手34番地の頃、小学生まで増えてきて、その中には男の子もいました。みんなで43名でした。幼稚科が4年、普通科が4年、そして高等科が4年という形をカンヴァース先生は作りました。しかし、明治32年に文部省から義務教育の段階では、特定の宗教を教えてはいけないと言われ、断腸の思いで幼年科を廃止しました。
エピソード9
「捜真の名前について」
 カンヴァース先生は、「メリー・エル・コルビー・スクール」を日本名にしたいと考え、真を捜す(truth seeking)という意味から「捜真」と名付けました。名前の原典は、エレミア5章1節からと、「我は道なり真なり」というイエス様の言葉からとりました。当時の教員たちは、学校の日本名を考えた時、「捜真」と「索真」の2つの意見があり、生徒と教員で相談して決めることにしました。そして「捜真」という名前に決まりました。その時、エミー・コーンズ先生は、自分も日本名にしたいと言って「山田千代」としました。
エピソード10
「根岸の競馬場に
明治天皇」
 日頃からカンヴァース先生は、教育というものは美しい所でしなければいけないという考えをもっていました。当時珍しい真っ白な木のフェンスを作りました。そこに真っ赤なバラを咲かせました。すると、根岸の競馬場が開かれる時に、明治天皇がいらっしゃって「バラは大変きれいで楽しい」と言われたそうです。これを聞いたカンヴァース先生は、非常にお喜びになり、その晩みんなで楽しい夕食をとりました。
エピソード11
「山手から中丸へ」
 山手34番地にあった捜真は、2つの理由によって、中丸に引越しすることになりました。一つは、生徒の数が150名になり、当時の土木の技術では4階建ては難しく、広い場所を捜しておられました。もう一つの理由は、山手の34番地の下にトンネルを掘るという理由(トンネルを掘ると山の上にあった井戸の底に傷がつく)で、立ち退きが命じられたわけです。
エピソード12
「新校舎」
 中丸の丘に建った校舎は、本当にきれいな真っ白な建物でした。ジラードという瓦を使ってありました。カンヴァース先生は、本当は5階建ての塔が欲しかったそうですが、建築の途中で嵐が来て折れてしまい3階建ての塔にしました。色は、真っ白な外側、灰色の屋根、土台は赤のレンガのニューイングランド風の建物でした。窓の縁は白で、近くにはグリーンの木とグリーンの畑でしたので、とても調和がよかった様です。
エピソード13
「生徒の足を洗う」
 校舎はきれいでしたが学校に通う道は、まだ整備されていませんでした。とにかく二人が通れるくらいの道です。雨が降るとその道は、両側の畑の土地が高かったため、すすきなどが覆い被さってしまい、足が泥んこになってしまうのでした。そうすると、カンヴァース先生と山田先生が門の所でバケツに水を入れて迎えてくださったのです。生徒たちの泥んこの足を一人ずつ洗ってくださったのでした。先生たちの行ないは、聖書にある弟子達の足を洗うイエス様と同じようです。
エピソード14
「マザー・カンヴァース」
 カンヴァース先生のことをいつしかみんなは「マザー・カンヴァース」と呼ぶようになりました。生徒たちの足を洗ってくださったりして、学校全体が家族のようになっていたのです。カンヴァース先生は、生徒たちにとって、お母様、お婆ちゃまみたいな先生でした。当時なかなか食べることの出来なかったチョコレートや飴を一つカンヴァース先生にいただいた生徒たちは忘れられない思い出となっています。日野綾子先生は、カンヴァース先生に洋服を直していただいた経験もあったようです。
エピソード15
「藤本伝吉先生」
 藤本伝吉先生は、テナーを美しく歌う音楽に優れた先生でした。気性が激しく、カンヴァース先生と何度も言い合いをなさったそうです。ある時、カンヴァース先生は、藤本先生から日本語を教えていただこうと思いました。そのテキストに聖書を使って欲しいと思うカンヴァース先生と使わないと言い張る藤本先生と口論になったようです。カンヴァース先生が日本語を勉強できたことを感謝してお祈りをしていると、藤本先生はお祈りの最中に、上を向いて大きな声を出してあくびをなさったと言われています。しかし、カンヴァース先生のご人格にふれた藤本先生は、ついにクリスチャンになりました。讃美歌の210番、213番、372番、433番は、藤本伝吉先生が作詞した讃美歌です。



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